欧米人と日本人との動物愛護についての違い【2021/10/13】
[ ■ 日々の事 ]
今年和田浦で見たツチクジラの解体。コロナの影響ですぐそばまでは行けず、まるで太地に居座る愛護団体のよう遠くから撮影。
専門学校でも”捕鯨問題”を取り上げているので映画『The Cove』を今見てもらっている。その後は映画『Behinde The Cove』。
『The Cove』の中でカナダ人女性フリーダイバーが太地の浜で殺されていくイルカを見て号泣してるのだが、「どうしてそんなに泣くのか?」と自分は感じた。そりゃペットが死んでしまえば泣きたくなるし、落ち込むだろう。しかし欧米人には違った思考がるのでは?と感じている。
'67年にリン・ホワイトがサイエンス誌に「環境破壊はキリスト教の教義によるもの」と創世記第1章を引き合いに出して批判した。しかし'74年にはジョン・パスモアが単著『自然に対する人間の責任』で「創世記のノアの箱舟の所では資源を使いまくるにではなく”管理”もしなさい」と言い、ホワイトに反論している。
持論だが、この”管理”という考えが欧米人に受け継がれているのだろう。「僕らが自然や生き物を”管理”しなきゃ」と。つまり彼らの腕の中に自然や生き物を置いておきたいのだろう。
しかし果たして自然や生き物は本当に人間のお世話になりたいのでしょうか?「私達人間があなたたちを守ってあげる」と言っても相手側は「いや、大きなお世話ですので放置しておいてください」と言ってる気がしてならないのだ。
欧米人は人間をピラミッドの頂点に置き、獲るのも管理するのも上から眺めている。しかし人間と生き物がいる場所は違うのだ。それは分けて考えるべきだろう。人間は自然界に入って行くことはできない。逆も然り。
このことからも時折いるダイビングのガイドやプロ水中カメラマンが「お魚」と自然界のいる魚に「お」を付け敬うのに抵抗感がある。魚は「別に人間に敬ってもらわなくても良い」と思っているのでは?食材になってしまったら「お魚」「お肉」「お野菜」と感謝のために「お」を付けるのは全う。
人間と自然や生き物は分けて考えるべき。易々と「管理してあげる。守ってあげる」と言うべきではない。ほっといてやれだ。